ふるさとの原点
<Vol.03>
僕は、経営者になれたが、全然特別な人間じゃない。
設計の才能があるわけでもないし、良い学校も行ってないし、建築の世界に入ってから、家に興味を持った程度だ。
小学生と中学生の良い記憶が僕にはほとんどない。小学校はいじめられっ子で、下級生とよく遊んでいた。勉強もほとんど、しなかった。よく考えたら幼稚園の時から登園拒否していたように思う。
中学生になってもクラブにも入らず、ゲームセンターに行ったり、万引きをしたり、バイクを取ったりと好き放題していた。決して、喧嘩は強くなかったので新京極(四条河原町)のゲームセンターに行っては喧嘩に負けて、お金を巻き上げられた悔しい思いもした 笑。しかし、学校はちゃんと行っていたように思う。両親が8歳で離婚をして、母を悲しませてはいけないと思って、行動していたかもしれない。
父は京都の西陣で着物の染物業を営んでいた。僕が小学校を上がるぐらいに事業に失敗をし、大きな借金を背負ったと聞いている。僕らに迷惑をかけないようにと思い、別れを選んだとも聞いている。それでも、夜逃げの記憶もあって、今では良い経験だったと思えるようになった。父には良い思い出しかなく、僕は父の代わりになろうと、母を守ろうと頑張ってきた人生だったなと今思えば、そう感じる。
この時、住んでいた貸家が本当にボロ家で、長屋でとなりの人の声は聞こえるし、洗面所が無いので歯を磨くのは台所。お風呂の扉は木製でボロボロ。トイレはもちろん汲み取り。
でも、この家が僕のふるさとの家だ。ボロだけど、この家があったからこそ、家づくりの仕事に繋がったと感じている。母と弟でめちゃくちゃ小さいテーブルで食べたご飯が最高に幸せなひと時だった。家づくりの先にある家族の幸せを理念にしているのも、この温かさがあったからだと思う。この家の裏が素晴らしい景色で一面、田んぼになっていて、この光景が僕の描くふるさとの土台になっている。下屋に上って、その光景を見ながら昼寝するのが最高のひと時だった。
そんなフラフラしていた時期は母に迷惑をかけているなと感じながらも、エスカレートしている自分がいた。友達に流されたり、悪い習慣から抜けられなくなっていた。それでも、学校や警察に呼び出されることがあっても、母から一度も叱られた記憶がない。いつかの迎えに来てもらった帰りもあの田んぼ道だった。「今日は何のごはんにしようか?」
その言葉を聞いて、もう悪いことはよそうとこの時、決めた。